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山中一平ストーリー

2007年10月29日(月)と30日(火)夕刊フジ(関西版)に、山中一平の記事が掲載されました。

リポートF 幻の音頭取り山中一平再始動(上)

 

 遠くは鉄砲光三郎、今は河内家菊水丸ら多くの功績で、広く認知されている河内音頭の世界。そんな中で“幻の名人”といわれる音頭取りが再始動した。器用に渡り歩けば、今頃は一代を築いていたかもしれない。そんなプロ音頭取りの遠回り半生を追った。(豊田昌継)

 

松鶴に睨まれた初舞台トリ
稼ぎまくったホープ「全国区進出」目前に・・・

 

 5月5日、大阪・服部緑地での野外フォーク&ロックライブ「祝春一番」。太鼓やギターなどおなじみの装置の前に、河内オンドリャーズのリーダー、山中一平は純白のタキシード姿で現れた。
 挨拶代わりに「釜山港へ帰れ」を歌うと、「かもめの街」「雨に濡れた慕情」と昭和歌謡メドレー。鍛えた野太い声は聴かせどころ十分だ。それでも4曲が終わり、客にダレが見え始めた頃、まるで見計らったかのように「ほな、河内音頭やらせてもらいます」。
 キーボードとギターがおなじみのメロディーを奏で、張りのある声で「え~、さ~ては」とうなり始めると、空気は一変。若者や出番を終えたミュージシャンらがステージの前になだれ込み、思い思いに踊り始めた。♪イヤコラセ~ドッコイセ~。そうして「王将 若き日の坂田三吉」半ばを終える頃、踊りの輪は階段伝いに会場を取り囲み、この日登場した十数組の中で一番の盛り上がりを見せた。
 「ええ感じやろ。河内音頭ではすごい人なんや。でも、いろいろあってなあ・・・」
 上機嫌で手拍子を打つ記者に、ライブを主催する阿部登がささやいた。関西ロック界の重鎮である阿部も一平の声、生き様に引かれた一人だ。


 ♪ ♪ ♪


 「ボクの人生、あの時にああしてたら、この時こうしてたら、というのが多い。でも、それがあったから、今やりたいことにたどりついた」
 一平(本名・山口英弘)は1952年、東大阪市若江に生まれた。土地柄、見よう見まねで河内音頭を覚え、中学で櫓デビュー。3年の時には早くも鉄砲博三郎に弟子入り。その後生駒一に預けられた。
 この頃から迫力ある声と節回しは注目され、18歳で大手レコード会社から「神崎与五郎」「河内十人斬り」「雷電」「王将」のテープをリリース。生駒一、初音家寅若、小松みつ子ら“若手最強メンバー”の1人として、地方巡業では相当稼いだという。
 このテープ、現在は100円ショップなどで発売。後輩たちも参考書代わりに使っている。ところが、演奏欄には「春駒会」「河内音頭保存会」とある。「会社から録音料だけもらって、印税契約やなかったんです。少なくとも通算30万枚は出たそうで、惜しいことしましたわ」と一平。
 だがテープを聞いた松竹芸能に早速スカウトされ、73年12月に新世界新花月のトリで初舞台を踏んだ。当時、音頭が寄席やテレビに登場することは珍しくなかったが、一平のように“本割”で出るのは異例。10日間興行の楽日には、在りし日の笑福亭松鶴に「何でお前がトリじゃ!」と怒鳴り込まれたのを一平は覚えている。期待と実力の一端を表す話だ。
 この頃、一平は「山中ひろし」を名乗り、音頭と並行して松山恵子や大月みやこ、天童よしみらを育てた大阪の作曲家・西脇功のもとで歌手修行を始めている。「一平」の名は西脇にもらった。そして、新曲「ざんざ大阪」をリリースし、これからという78年、どういうわけか、一平は忽然と姿を消してしまった。

 

2007年10月30日夕刊フジ(関西版)より

リポートF 幻の音頭取り山中一平再始動(下)

 

「出家引退」撤回 大病も乗り越え

 

 河内音頭の旗手として期待され、1977年には「ざんざ大阪」で歌手としてもデビューした山中一平。だが、翌78年に忽然と姿を消してしまった。行き先は比叡山延暦寺。僧職への転身を決めたのだった。
 「この頃は家族を抱えて、音頭だけで食べる自信もなかったし、将来への不安もあり、人生をリセットしたかった」
 一平は芸能界のしきたりを事務所の先輩で、坊主頭の漫才師・内海カッパに学んだ。カッパには僧籍があり、その紹介で寺の大僧正・中野英賢(故人)に会った。
 中野は、最澄像に仕える「寺真(じしん)」を務め、難民や障害者への活動で広く知られた高僧。財界トップやその筋の大親分ら数多くから慕われた。豪放磊落で懐の深い中野に惹かれた一平はすべてを捨て、得度を志願。瀬戸内寂聴も経験した行院での60日修行に耐え、僧籍「英弘(えいこう)」を拝受。その後は中野の秘書として10年以上、全国を飛び回った。
 「わずかな修行でしたが、自分のできることを精いっぱいすることを学びました。師匠には『歌の才能があれば、他人に喜んでもらえる』と、いつでも(芸能界に)戻るよう諭されてました」

 

ちんどんブーム火付け役赤江真理子の支えで「オンドリャーズ」結成

 

 92年、芸人仲間から「河内音頭道場」の手伝いを依頼された。半ば復帰させるための講釈とも思われたが、一平はそれに乗った。もちろん、生徒は簡単に来なかった。
 そこで、道場主がサクラで呼んだのが、ちんどんブームの火付け役の1人、ちんどん通信社の赤江真理子だった。NHKドラマ「青空にちんどん」の原作者で、当時は通信社社長・林幸次郎の妻。現在は、河内オンドリャーズで太鼓を担当する一方、縁あって一平の面倒を見ている。
 「最初は、一平師匠に太鼓を教わるつもりでしたが、このうまい音頭取りを世に送り出したいと思うようになりました」と真理子は話す。
 94年には、復帰作「OSAKAミッドナイトブルース」を発売。ところが、その矢先、一平に不幸が襲った。肺結核と糖尿病の併発。2000年には脳梗塞で三たびブランク。
 しかも、これらを克服したからといって、長年一方的に離れていた河内音頭の櫓が簡単に迎えてくれるはずもなかった。ただ、一平は競馬で食いつなぎこそしたが、副業には手を出さなかった。プロにこだわった。

「河内音頭を音楽の一ジャンルとして」

 この頃から一平は漠然と、音頭を主体とした歌って踊れる新たな音楽ショーをやりたいと思っていた。
 そんな願いに真理子が奔走した。「一平を日本一の音頭取りに」と、旧知だった関西のミュージシャンに呼びかけた。この声に、日本を代表するロックドラマーのベーカー土居や、キーボーディストの渡辺サトルが参加。河内オンドリャーズが誕生した。
 現在は、渡辺、真理子のほか、南角光児(b)、小林健治(dr)、村地博(sax)、ハッピー幸子(ac)、いこまたつや(g)、虹友美(三味線)ら一線級ミュージシャンが一平を支える。
 「河内音頭は、世間に認知されたといわれるけど、やはり地元のものですわ。そこから飛び出して、お客さんには音楽の一ジャンルとして見てほしいんです」
 昨年には、河内音頭では初めてという文化庁芸術祭にも参加できた。活動はまだ年1~2回だが、少しずつ輪を広めたいという。55歳。遅咲きの挑戦だ。=敬称略

(豊田昌継)

2007年10月31日夕刊フジ(関西版)より